『戊辰白河口戦争記』を読む(6)地形図で確かめながら

(2021年1月6日 ザ・戊辰研マガジン2021年1月号に掲載 最終更新2024年11月23日)

私の『戊辰白河口戦争記』の読み方は、「出てくる地名を地形図上で確かめながら」というものです。その出来事・戦闘などがあったのは何処なのか、地形図上で確認しつつ、距離・経路を推測します。
おそらく地元に生活している人ならば距離感は自明でしょうが、東京に在る身では参照できる地図が頼りです。このような作業によって、『戊辰白河口戦争記』の記事が空間的に読解されることになります。

まず最初に利用するのはGoogleやYahoo!の地図サービスです。これらはそれぞれ特長がありますが、Google地図は、地名をクリックするとその範囲が表示されることと、ストリートビューや3D(鳥瞰)航空写真の機能が便利です。Yahoo!地図の方は、古い字〈あざ〉がなお記載されているところがあるので、これは大きなメリットになっています。また、どちらも地図上の距離を測ることができます。
これらによって地名の位置をおおよそ知ることができますが、しかしどちらも地形図としては情報が不足しています。
そもそも現代の地図であるということが、戊辰戦争当時とは違っています。現代は道路網が車道として整備され、主要道路が当時とは異なっています。鉄道・新幹線、高規格道路、海岸埋め立て地、貯水ダム、山を切り崩しての大規模造成などなど、当時には無かったものが満載です。

それでは戊辰戦争当時の地形、道はどうだったのか。当時の測量地図は伊能図くらいでしょうから、「慶応4年の地形図」というのは不可能としても、できるだけ近似の状態として、明治期のそれもなるべく初期の地形図を当たることにしました。
明治13~19年(1880~1886年)陸軍参謀本部「第一軍管区地方二万分一迅速測図原図」などは作成時期も早く、縮尺も大きく、復刻版も発行されていたりして図書館などで閲覧することもできますが、残念ながら白河は範囲に含まれていません。(ほぼ関東地方が対象範囲です。)
インターネットでは「歴史的農業環境閲覧システム」https://habs.rad.naro.go.jp/ というサイトで閲覧することができます。

「今昔マップ on the web」http://ktgis.net/kjmapw/ では明治34~大正5年(1901~1916年)測量の五万分一地図を現代地図と対比して閲覧できますが、対象範囲は東北地方太平洋岸で、これも残念なことに白河は範囲外です。

スタンフォード大学サイトの地図索引図
(スタンフォード大学サイトの地図索引図)

私が知っているもので、白河周辺が範囲となっていて、インターネット上で閲覧できるものとしては、スタンフォード大学のサイトで公開されている明治43年(1910年)陸地測量部「五万分一地図」
https://stanford.maps.arcgis.com/apps/SimpleViewer/index.html?appid=733446cc5a314ddf85c59ecc10321b41
が今のところ最善ということになります。
これにしても「明治43年」ですから、新道路建設や鉄道敷設の影響は免れません。それでも地元の旧来からの踏み跡を思わせる細路が書き込まれていますし、大規模造成や貯水ダム建設の果ての現代の地図よりはずっとマシです。

明治43年の地図と現代の地図を並べて見てみると、以下のような感じです。

《奥羽列藩同盟軍(稲荷山)と新政府軍(小丸山)が対峙した奥州街道》
現在は奥州街道(旧陸羽街道)が小丸山集落のところで直線化されているのですね。
白棚鉄道(もちろん戊辰戦争のころは存在しない)の跡が現在道路になっていることが分かります。

 明治43年地図(陸地測量部)
小丸山 明治43年地図
 現代地図(国土地理院)
小丸山 現代地図

《会津街道と奥州街道の追分がある女石関門の周辺》
女石で左右に分かれる会津街道(茨城街道と表示)と奥州街道。昔はY字の追分でした。
白河の北にある丘陵地、ここは両軍攻防の地でしたが、ずいぶん土地造成が進んでいます。

明治43年地図(陸地測量部)女石関門 明治43年地図

現代地図(国土地理院)女石関門 現代地図
《仙台藩細谷十太夫が率いた「からす組」が陣した小田川〈こたがわ〉あたり》
昔は小田川北側の山に入る小径が多く記載されていますが、現在おおくは廃道になっているようです。

 明治43年地図(陸地測量部)小田川あたり 明治43年地図

 現代地図(国土地理院)小田川あたり 現代地図

 《会津軍根拠地の一つ大平〈おおだいら〉への道》
途中の羽鳥集落は1950年からのダム建設のため水没しました。

 明治43年地図(陸地測量部)大平への道 明治43年地図

 現代地図(国土地理院)大平への道 現代地図
 《新政府軍右翼隊が白河奇襲のため辿った白坂~夏梨の道》
現在に比べると細々とした道があるばかりの地域だったようで、道案内者が無くてはこの奇襲は実行できなかったでしょう。幕末期はさらに難路だったのでは?

 明治43年地図(陸地測量部)白坂~夏梨の道 明治43年地図

 現代地図(国土地理院)白坂~夏梨の道 現代地図
《新政府軍の右翼隊が辿った夏梨-十文字-合戦坂-雷神山への経路》
夏梨・十文字に出た奇襲部隊は、南の丘陵地のどこを越えて来たのでしょう? さらに古い地図で見てみたいものです。

 明治43年地図(陸地測量部)新政府軍の右翼隊が辿った 明治43年地図

 現代地図(国土地理院)新政府軍の右翼隊が辿った 現代地図
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これまでは、スタンフォード大学のサイトで閲覧できる明治43年陸地測量部「五万分一地図」の範囲でやってきましたが、やはりさらに古い地図の必要を感じます。
国土地理院は旧版地図の謄本交付を行なっていますので、この制度を利用して、紙資料として旧版地図を参照してみたいと思います。—————————————-
「戊辰白河口戦争記 学習ノート」
戊辰白河口戦争記 学習ノート
『戊辰白河口戦争記』は、福島県白河町の教育者・歴史研究者であった佐久間律堂が、戊辰戦争における白河口の戦いに関して地元民の証言等を収集・編纂して昭和16年に刊行した書です。軍人等によって記述された多くの戊辰戦史とは異なり、生活の場を戦地とさ...

 『戊辰白河口戦争記』の訳や地名地図などを掲載しています。

【記者 冨田悦哉】

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