千の風   A THOUSAND WINDS

  A THOUSAND WINDS
   - Author Unknown- 


 Do not stand at my grave and weep,
 I am not there, I do not sleep.

 I am a thousand winds that blow;
 I am the diamond glints on snow.
 I am the sunlight on ripend grain;
 I am the gentle autumn's rain.

 When you awake in the morning hush,
 I am the swift uplifting rush
 Of quiet in circled flight.
 I am the soft star that shines at night.

 Do not stand at my grave and cry.
 I am not there; I did not die.

 


 千の風  (訳:冨田悦哉 2005/10/22)

私の墓の前に立って泣かないでください。
私はそこにいません。私は眠ってはいません。

私は千の風になって吹き渡っています。
ダイヤモンドのきらめきとなって雪の上にいます。
陽の光となって実りの穂にそそぎます。
やさしく降る秋の雨にもなります。

朝は、すばやく上空に駆け上がり、
円を描いて飛びながら、
あなたの安らかな目覚めのために周囲を静めています。
夜は、ほのかな星の光となって空にまたたいて、
あなたを見守っています。

私の墓の前に立って嘆かないでください。
私はそこにいません。私は死んでないのです。

 


私のいとしいひと。顔を上げて、どうか私の声を感じてほしい。
私の墓の前で泣かないで。そこに私はいないのだから。

空を見上げてみて。私は、絹雲の高みに千の風となって吹き渡っている。
吹雪の翌朝に新雪がきらめく一瞬を見たならば、それもまた私なのだ。
豊かな実りを迎えた穂に穏やかな陽光がそそぐ、ある日の景色の中にも、私はいる。
空から降る雨の無数の一粒一粒が、あなたのもとに還る私なのだ。

朝は、空に翼を広げるように、あなたの目覚めを静かに包んでいる。
夜は、ほのかな星の光となって空に瞬いて、あなたの安らかな眠りを見守っている。

そう、私は死んで墓に入ったのではなく、この世界のいたるところにすうっと溶けて広がっていった。
私の墓の前で泣かないで。私はいつもあなたの側に共にあるのだから。

(悦哉 2005/10/29)

 


生命のイメージモデルは「つむじ風」かなと考えています。
風はそれ自体は見えるものではありませんが、まわりの落ち葉、チリを巻き込んでその姿を見せています。生き物も体を構成するのは物質ですが、その物質はたえず入れ替わっています。
生命活動の実相は、見えている物質ではなく、むしろつむじ風における空気の回転運動のようなものではないでしょうか。

その空気の回転運動も無から生じるのではなく、もともとあった空気に流れが生じて一時の高まりを見せているのです。
つむじ風が消えるときも、無になるのではなく、空気の流れは周囲の空気に溶け込んで静まるという感じです。

生命は何も無いところに超自然的にポッと現れるのではなく、全体の場の中にエネルギーが凝り集まった部分が生じて一時の活動が現出するのではないでしょうか。
生命がその活動を終えると、エネルギーも物質も全体の中に拡散していきます。存在が消滅するのではなく、元々の全体に還るということです。

死の実相をそのようなものと考えると、わざわざ墓を作って自分の「死」を固定してしまうことは、かえって不自然なことに思えます。

「全体の中に還るべき私を墓に閉じ込めないでください。全体に還った私はもはや墓の中にはいません。墓の中に何かあるとしても、それは私を構成した物質の名残りに過ぎません。」

私は一個の生命が別個の生命に「転生」するという説には同意しかねます。また、魂がどこか良い所や悪い所に行くという説も信じがたい。
死んだ後はどうなるの? みんな「まぜまぜ」になるんだよ。無くなってしまうのではなくて、すうっと溶けて世界のいたるところに広がっていくんだよ。という私の考えからすると、『千の風』の思想はたいへん共感できるものになっています。

「私は一時一個の人間として存在したかのようにありました。しかし死によって元々の全体の中へ還りました。ですから全体の全ての事象の中に私がいます。この世界の全ての事象に私を感じてください。そして何時もあなたの側に共にあることを感じてください。全体の中であなたと私が一つであることを感じてください。」

あらためて生命にあふれた地球を思います。しかしそれは生者のみの世界ではありません。
生死という循環もすべて包含した、生命活動の集合体としての地球。
生命活動が複合して地球自体が生きているとも思われます。
マグマのたぎりもプレートの移動も地球の脈動です。大気や磁場帯は彼女の繊細な表皮です。
私は彼女の一時の一部分にすぎない。けれどもそれで十分安心できます。
地球の中で生かされ生きて、いずれ死んでもその中にあるのですから。
そしてあなたも、私と同じです。

(悦哉 2005/10/30)