若いころ、仕事でお金の取り立てに訪問したお宅でのこと。
老夫妻は私を居間に上げてくれ、お茶を出してくれた。
お金を支払う必要があることを、ひととおり説明し、支払えない事情を聞きながらも、
老夫婦の身なりと家の中の様子を見れば、支払えるお金は無いだろうと、もう頭の中では考えている。
(いったい俺は何をしに、この人たちのところに来ているのだろう。)
「では、また参りますから。」と立とうとして、私は少し咳き込んだ。
そのころ私は喘息のような症状で、就寝中も咳が止まらず、半年はマスクをしている状態だった。
「すみません、どうも咳が治らなくて。」
すると老夫は私に「病気に負けてはいけませんよ。」と言う。老妻も続いて「病気に負けてはいけませんよ。」と言う。
(どうして… 自分たちこそ病気があり、生活費にも不自由しているのに、なんでそう真っ直ぐに言えるのか。)
老夫妻が代わる代わるに言う「病気に負けてはいけませんよ。」の声に送られて、気恥ずかしいような思いで路地に出た。
その後も心臓の手術を受けたり、脊髄神経の腫瘍を取ったりと、私の病気は絶えない。
手術後も痛みを背負って生活する。こんなことが生涯つづくのだろうか…
そんなときに「病気に負けてはいけませんよ。」という言葉が追いかけてくる。
(あの老夫妻はもう存命のはずもない。)
いったい、「負ける」とは何なのか。どうなれば「負け」でないのか。
病気が治れば「勝ち」か。では病気を治せなければ「負け」なのか。
病気が無くなれば、「負け」は無くなるようにも思うが、
病気がある限り、「負け」の影が後をつけてくる。それでも「負けない」ことがあるのだろうか。
けっきょく、いまも病気といっしょに生きている。
(俺はまだ「負けていない」だろうか。)
(2015年3月13日)